小説「仏教のながれ2」その17

 それでは、なぜ唐の長安で密教が新興宗教として民衆に熱狂的に歓迎されたのでありましょうか。このころの仏教は難しい経文を読誦(どくじゅ)して修行をしなければならないものでした。一般の民衆が簡単にできるものではありません。真言密教は難しい経文を読まなくても修行をしなくても、修行を積んだ偉いお坊さまが加持祈祷をすれば病気が治り、災難に遭わず、どんな願いも叶うとしておりました。

 一般の民衆は飛び付きました。何しろ難しい経文を読むこともなく修行することもなく、偉いお坊さまに加持祈祷をしてもらえば無病息災が得られるのです。それはまた逆に偉いお坊さまになって加持祈祷をすればお布施が入るのですからやめられません。一言で言えばお坊さまは儲かるのです。

 加持祈祷ができる偉いお坊さまになるには「阿闍梨(あじゃり)」という最高の地位にならなければなりません。空海の師である青龍寺の恵果和尚はもちろん「阿闍梨」であり、空海は財力とずば抜けた頭脳をもって短期間で恵果和尚から「阿闍梨」の称号を得ています。密教、すなわち秘密の教えですから師から弟子への直接の伝授であり、他人はこの秘密の教えを知ることができません。(続く)

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