小説「仏教のながれ5」その7

 翌年、弘長元年(1261年)5月12日に日蓮が鎌倉に戻った際、幕府は日蓮を捕らえ、あろうことか御成敗式目の「悪口の科」で伊豆の伊東へ流罪にしたのでした(伊豆流罪)。

 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許される)されて日蓮は鎌倉に戻りました。翌年、日蓮は、病気の母を見舞いに郷里の安房国へ赴きました。

 文永元年(1264年)11月11日夕刻、安房国東条郷の松原大路を通行中、地頭の東条景信の率いる念仏者の襲撃を受け、日蓮は額(ひたい)に傷を負って左手を骨折させられました(小松原の法難)。

 文永5年(1268年)、鎌倉幕府に蒙古からの国書が届けられた。国書には、蒙古の求めに応じなければ兵力を用いると書いてありました。立正安国論で予言した他国侵逼難(他国からの侵略)が現実に迫ってきたのです。

 日蓮は、この時の執権である北条時宗(ほうじょうときむね)をはじめ、幕府要人、鎌倉の諸大寺の僧ら、11ヵ所に書状を送り、予言の的中と諸宗の僧らと公(おおやけ)の場での法論を迫りました。このときも幕府は黙殺し、諸宗はもちろん日蓮が相手では避けるのが賢明でした。しかし、伊豆流刑後も日蓮はさらに激しく幕府に詰め寄る姿に恐怖を覚えると共にその裏返しの感情として幕府は日蓮とその教団を危険な存在として弾圧する方向へと舵をきりつつありました。

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