小説「仏教のながれ6」その3

 こまったのは滝泉寺の院主代の行智(ぎょうち)です。宗教ならば法論で対決すべきですが、行智が日興上人に勝てる見込みはありません。そこで行智は、これらの人々を脅迫したり、迫害をして自宗の信徒が減るのを阻止しようとしました。いつの時代も同じ構図です。

 弘安2年(1279年)9月21日、滝泉寺の行智らの策謀により、大聖人門下となっていた熱原の農民信徒20人が無実の罪で逮捕され、鎌倉へ連行されました。そしてここに登場するのが、またまた平左衛門尉です。平左衛門尉は、私邸で拷問に近い取り調べをして法華経の信心を捨てるよう迫ったが、全員が信仰を貫き通しました。激怒した平左衛門尉は、3人を処刑し、17人を追放にしました。この法難を熱原の法難といいます。

 権力に溺れた物狂いに付ける薬はないようです。その後、平左衛門尉は、北条時宗の子の貞時(さだとき:14歳)が第9代執権になってから専制と恐怖による支配を強め絶大な権力を握りました。正応6年(1293年)4月、鎌倉大地震の混乱に乗じ、なんと貞時の軍勢に自邸を襲われ、平左衛門尉は自害して一族は滅亡しました。

 また、熱原(静岡県富士市)にあった滝泉寺は、活断層の上に建っていたため地震による活断層のずれで倒壊し、現在は「昔ここに滝泉寺というお寺がありました」という碑文の石碑があるだけです。

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