小説「仏教のながれ6」その5

 日女御前へのお手紙には「この御本尊、全く余所に求むることなかれ。我れら衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり」とあります。この意味するところは「この御本尊は全く別の所に求めてはならない。ただ、私たちが法華経をたもって、南無妙法蓮華経と唱える胸中にいるのです」つまり、我々凡夫にも仏界の生命がそなわっているということです。

 ここに、日蓮仏法の本源的な平等思想があります。

 我々凡夫に仏界の生命がそなわっているということは、誰でも南無妙法蓮華経と唱えることで自身に仏界の生命を体現させることができるということです。

 それは、男も女も、大人も子供も、日本人も、アジア人も、中東の人々も、アフリカ人も、ヨーロッパ人も、南北アメリカ人も、オセアニアの人々も、みんな平等に仏界の生命をそなえているということです。

 もちろん、白人も、黒人も、金持ちも、貧乏人も、病人も、健康な人も、社長も、社員も、自営業者も、農業の人も、漁業の人も、自由主義者も、共産主義者も、悲観主義者も、楽観主義者も、さらに言えば平左衛門尉も、みんな平等に仏界の生命をそなえています。

 この日蓮仏法の本源的な平等思想は、男女の違い、肌の色の違い、言葉の違い、国の違い、あらゆる違いの差別を軽々と超え、普遍的な絶対的な価値へと昇華されるものと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA