小説「仏教のながれ6」その7

 大聖人御入滅後、日興上人はただ一人、大聖人の広宣流布(こうせんるふ)の精神と行動を受け継がれました。広宣流布とは、仏法を広く宣(の)ベ流布することで、つまり広く弘教することです。お釈迦様の法華経の中にこの言葉が出てきます。

 また、日興上人は、日蓮大聖人が書き残された遺文(いぶん)、書状などを集めて後世のために御書(ごしょ)として残されました。さらに、日興上人は御書に書かれている通りに弘教し、弟子もそのように育成されました。お釈迦様の「法に依って、人によらざれ」の通り、厳格に御書を根本とされました。

 以来、日興上人から代々の法主(ほっす)に受け継がれました。なお、日蓮大聖人が顕(あらわ)された御本尊を書写するのは法主(管長、貫首ともいう)のみがなされることになっています。書写された御本尊は各家庭に安置され、基本的に各家庭で朝晩、南無妙法蓮華経と唱えられます。

小説「仏教のながれ6」その6

 また、大聖人のあらわされた一生成仏抄には、鏡を例えにして、暗く曇った鏡も磨(みが)けば玉のようによく見えるようになる。我々凡夫の生命は「深く信心をおこして日夜朝暮に又おこたらず磨くべし何様(いかよう)にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱えたてまつるをこれをみがくとは云うなり」と毎日、朝晩、自身の生命を南無妙法蓮華経と唱えて磨いていきなさいと励まされています。

 さらに、諸法実相抄で「いかにも今度・信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをしたもうべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」と、日蓮大聖人のお心のまま弘教するならば地涌の菩薩であろうと弟子を励まされています。

 弘安5年(1282年)10月13日、日蓮大聖人は法華経の行者として生き抜かれた61歳の尊い生涯を終えられました。

小説「仏教のながれ6」その5

 日女御前へのお手紙には「この御本尊、全く余所に求むることなかれ。我れら衆生の法華経を持ちて、南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり」とあります。この意味するところは「この御本尊は全く別の所に求めてはならない。ただ、私たちが法華経をたもって、南無妙法蓮華経と唱える胸中にいるのです」つまり、我々凡夫にも仏界の生命がそなわっているということです。

 ここに、日蓮仏法の本源的な平等思想があります。

 我々凡夫に仏界の生命がそなわっているということは、誰でも南無妙法蓮華経と唱えることで自身に仏界の生命を体現させることができるということです。

 それは、男も女も、大人も子供も、日本人も、アジア人も、中東の人々も、アフリカ人も、ヨーロッパ人も、南北アメリカ人も、オセアニアの人々も、みんな平等に仏界の生命をそなえているということです。

 もちろん、白人も、黒人も、金持ちも、貧乏人も、病人も、健康な人も、社長も、社員も、自営業者も、農業の人も、漁業の人も、自由主義者も、共産主義者も、悲観主義者も、楽観主義者も、さらに言えば平左衛門尉も、みんな平等に仏界の生命をそなえています。

 この日蓮仏法の本源的な平等思想は、男女の違い、肌の色の違い、言葉の違い、国の違い、あらゆる違いの差別を軽々と超え、普遍的な絶対的な価値へと昇華されるものと思います。