小説「仏教のながれ5」その14

 少し松の根のところで休んでいるところへ、一人の大男の侍が叫びながら駆け込んで来た。一瞬、役人たちに緊張が走り、刀の柄に手をかけた。剛毅(ごうき)な日蓮は微笑みながら立ち上がって役人たちを制した。

「この者は狼藉者(ろうぜきもの)ではありません。金吾殿、よう参られた」

「聖人様、これは何事でございますか」この侍、裸足(はだし)である。

 再び、お手紙から引用します。

「今夜、頸(くび)切られへまかるなり。この数年が間願いつることこれなり。………。今度、頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せしこと、これなり」

 日蓮は弟子の金吾に噛んで含めるように励まされ、最後に念を押すように締めくくった。

「日蓮は法華経の行者として頸を切られるのです。笑って日蓮を見送ってくだされ」

 日蓮は再び馬に乗り、この馬の口に四条金吾と後から追いついた金吾の兄弟三人がとりつき、一行は竜の口へ向かって歩き出した。

小説「仏教のながれ5」その13

「和気清丸(わけのきよまろ)が頸(くび)を刎ねられんとせし時は、長一丈の月と顕れさせ給い、………。今、日蓮は日本第一の法華経の行者なり。その上、身に一分のあやまちなし。………。日蓮、今夜頸切られて霊山浄土(りょうぜんじょうど)へまいりてあらん時は、まず『天照大神・正八幡(しょうはちまん)こそ起請(きしょう)を用いぬ神にて候いけれ』とさしきりて、教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。痛しと思わば、急ぎ急ぎ御計いあるべし」

 ここで正八幡とは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)のことで、起請とは約束ということです。ここでの意味は法華経の行者を守護するという約束を実行せよと天照大神・八幡大菩薩を強く叱りつけているのです。

 こうして日蓮は再び馬に乗り、一行は竜の口の刑場へ向かって歩き出した。

 由比の浜へ出た所で日蓮が再び口を開いた。

「しばし、殿ばら。これに告(つ)ぐべき人あり」と一行に休憩を申し入れ、少年の熊王に呼びに行かせた。

 まるで日蓮はこの移送を楽しんでいるかのようであり、自由というか奔放に振る舞われています。反対に役人たちの方があたかも罪人のように日蓮に言われるがままになっていました。

小説「仏教のながれ5」その12

 もう、竜の口の刑場で日蓮の頸(くび)が刎(は)ねられるは必然でありました。一行は松明(たいまつ)の炎をたよりに若宮小路へと進みます。現代とは違ってこの時代、月が雲間に隠れると闇は不気味なほどに真っ暗であり、誰も何も言わずに歩いて行った。

「しばし馬を止められよ」突然、日蓮の声が響いた。ぎょっとして一行は立ち止まった。日蓮は馬からひらりと降り立ち歩みを進めます。何事かとみんな息をひそめて見守った。

「日蓮殿、いかがなされた」侍頭が動揺を隠しつつ問いかけた。日蓮は問いには応えず悠然として鶴岡八幡宮の参道鳥居の前に立った。

「いかに八幡大菩薩はまことの神か」日蓮の大音声が響いた。これは、お釈迦様の法華経に説かれた神々への叱責(しっせき)と思われます。法華経に説かれた神々は法華経の行者を守護すると誓って約束しているのです。

 このときの叱責のことは後に日蓮が光日尼に宛てたお手紙に詳しいので一部引用します。鎌倉時代の文ですが現代でも意味を読み取れます。