小説「仏教のながれ5」その11

 二日後の昼下がり、平左衛門尉は軽武装した兵五百人を引き連れて松葉ケ谷の草庵に向かった。日蓮は、草庵を兵たちにさんざん荒らされたあげく捕縛(ほばく)され馬に乗せられ、若宮小路を通って鎌倉市中の人々に見せつけられて北条宣時邸に移送された。

「あれ、見ろ、日蓮が捕縛され馬で移送されている」

「日蓮もこれまでだな」

 それにしても、日蓮一人を捕縛するのに軽武装の兵五百人とは大層な念の入りようです。平左衛門尉の日蓮への憎悪は物に狂ったようでありました。

 そしてこの日の夜半、突然、日蓮は移送する支度を侍頭(さむらいがしら)に促(うなが)された。深夜のことですが、邸の門前には二頭の馬が用意されています。一頭の馬には日蓮が乗り、もう一頭の馬には侍頭が乗りました。日蓮に随行したのは日興ら数人の若い門人と少年の熊王(くまおう)でした。

小説「仏教のながれ5」その10

 良観の雨乞いは、一日、二日たち、七日たっても一滴の雨も降りません。良観はあと七日の延長を日蓮に申し入れた。しかし、延長の七日がたっても雨が降るどころか暴風が吹くという有り様です。ここに至っても良観は敗北を認めず日蓮への憎悪を募(つの)らせるのでした。

 こうして良観は、日蓮憎しで、裏にまわって幕府要人やその夫人たちに働きかけ、日蓮への弾圧を画策(かくさく)したのです。

 同年9月10日、突然、日蓮は幕府から呼び出しを受けた。日蓮が侍所(軍事・警察の役所)に行ったところ、所司の平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)の尋問を受けました。この時の平左衛門尉は、日蓮の諫めに聞く耳を持たず、御成敗式目の「謀反の科」とするための言質(げんち)を取るべく詰問(きつもん)してきた。それは既に御成敗式目の「悪口の科」で伊豆流罪にしているので今度は何としても流罪ではなく死罪にしたいがためでありました。

 取り調べの後、平左衛門尉は執権の北条時宗に尋問の報告をし、直ちに日蓮を捕え、斬首する意向を述べました。時宗は、直ちに斬首はまずいので、表向きの佐渡流罪を前提とする佐渡守宣時(さどのかみのぶとき)の預かりとするよう命じた。

小説「仏教のながれ5」その9

 こうして、翌日の評定で極楽寺良観に雨乞いの祈祷を命じる提案が決定された。祈祷は今日より三日の後から七日間行われると鎌倉の辻々に高札が立てられました。全部の期間を合わせると十日間にもなる。なんとも甘い設定であるが幕府も万が一のことを考えてのことでありましょう。

 ところが、ここで日蓮は良観に申し入れをします。それは、もし良観が七日のうちに雨を降らせたなら、日蓮が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が日蓮の弟子となるということです。こうして良観と日蓮の間に約束事が交わされました。

 6月18日の日の出とともに良観を導師とする雨乞いの祈祷が始まりました。壮大な極楽寺からは護摩を焚く煙がもうもうと上がっています。

 一方、日蓮は勤行唱題をやめて悠然と弟子たちと囲碁をしています。この時の弟子の問いに日蓮は「今、人々が雨を望んでいる時に、どうして雨が降らないようにと祈れるものか。これは薬師経の七難のうちの過時不雨の難が起きたものである」と答えています。