小説「仏教のながれ5」その8

 文永8年(1271年)の夏、関東地方は大旱魃(だいかんばつ)になり、鎌倉幕府は放って置けないほどの危機感をいだきました。執権の北条時宗(ほうじょうときむね)は信頼している平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)に相談するともなしにつぶやいた。

「水の涸(か)れた水田はどうしたものかのう」

「これは天の仕業、殿のせいではございませぬ」

「しかし、民が苦しむのはのう…」

「雨乞いの祈祷などしてみてはいかがかと存じますが」

「雨乞いか。祈雨の修法を行わせてみるか」

「それは、まさに殿の政(まつりごと)の一つとして民も喜ぶことと存じます」

「さて、鎌倉に祈雨の修法を任せられる高僧」平左衛門尉は殿の言葉を遮って話しを引きとった。

「おりますとも。生き仏と言われる良観上人がおります。なんでも真言律宗には祈雨の秘法があるそうな」

「ほう、祈雨の秘法とやらか」

「雨が降りますれば、幕府は大いに面目を施すことになります」

「そなたのわしへの忠義かたじけない。明日、評定にはかることにいたそう」

「恐れ入ります」

小説「仏教のながれ5」その7

 翌年、弘長元年(1261年)5月12日に日蓮が鎌倉に戻った際、幕府は日蓮を捕らえ、あろうことか御成敗式目の「悪口の科」で伊豆の伊東へ流罪にしたのでした(伊豆流罪)。

 弘長3年(1263年)2月、伊豆流罪を赦免(罪を許される)されて日蓮は鎌倉に戻りました。翌年、日蓮は、病気の母を見舞いに郷里の安房国へ赴きました。

 文永元年(1264年)11月11日夕刻、安房国東条郷の松原大路を通行中、地頭の東条景信の率いる念仏者の襲撃を受け、日蓮は額(ひたい)に傷を負って左手を骨折させられました(小松原の法難)。

 文永5年(1268年)、鎌倉幕府に蒙古からの国書が届けられた。国書には、蒙古の求めに応じなければ兵力を用いると書いてありました。立正安国論で予言した他国侵逼難(他国からの侵略)が現実に迫ってきたのです。

 日蓮は、この時の執権である北条時宗(ほうじょうときむね)をはじめ、幕府要人、鎌倉の諸大寺の僧ら、11ヵ所に書状を送り、予言の的中と諸宗の僧らと公(おおやけ)の場での法論を迫りました。このときも幕府は黙殺し、諸宗はもちろん日蓮が相手では避けるのが賢明でした。しかし、伊豆流刑後も日蓮はさらに激しく幕府に詰め寄る姿に恐怖を覚えると共にその裏返しの感情として幕府は日蓮とその教団を危険な存在として弾圧する方向へと舵をきりつつありました。

小説「仏教のながれ5」その6

 これを受けて幕府の要人が集まって寄合(よりあい)がなされた。

 北条時頼がまず言い放った。

「日蓮ごときが政(まつりごと)に口を出すとは…、どうしてくれようぞ」

「即刻、首を刎(は)ねればいいではないか」

「それはちとまずい。御成敗式目(ごせいばいしきもく)に照らし、謀反を起こしたのでもなく、殺害をしたのでもなく、悪口したわけでもない」

「悪口を言われるほうが日蓮だからな」一同のなかで軽蔑の意味を含んだ軽い笑いが漏れた。

「なに、われらが手をくだすこともあるまい。鎌倉中の念仏者どもが日蓮を亡き者にしようと狙っておる」

「では、われらは日蓮のことは捨ておき、念仏者たちにまかせるということだな」

「それがいい。日蓮がどうなろうとわれらは知らぬこと」

「は、は、は…」

 こうして幕府要人の方針が決められ、日蓮の民を思う諫暁(かんぎょう)は無視された。それから数日後、深夜、日蓮を亡き者にしようと念仏者たちが松葉ケ谷の草庵を襲います(松葉ケ谷の法難)。このときも日蓮はからくも難を逃れ、鎌倉を離れて下総国の富木常忍のもとに身を寄せました。