小説「仏教のながれ2」その8

 また、最澄が南都六宗との法論で天台教学の緻密な論理で打ち負かせたと伝えられてきました。空海は、ふと、そんな天台教学に興味を持ちました。そこで、空海は同時期に入唐したということで最澄に近付き天台教学関係の経文や天台大師の経典などを借り受け自分で学び始めました。また、最澄の向学心も凄まじく空海の持ち帰った経文や経典を借り受けて学んでいます。

 このとき空海は最澄から借り受けた経文や経典から天台教学がお釈迦様の教えを高低浅深に立てわけ、法華経の一念三千の法門が緻密な論理体系であることをたちまち理解いたしました。それはそれとして、空海はいよいよ東西に歴遊して真言密教の弘教を始めました。

 二人の弟子を伴ってある村に着きました。二人の弟子は、空海より先に村へ入り村の情勢をつかんできました。弟子の報告によると村に流行り病(はやりやまい)の病人が多く出て今まさに困っているとのことでした。そこで空海は病人たちを一箇所に集め、祈祷する準備を弟子たちに命じました。(続く)

小説「仏教のながれ2」その7

 そうして、空海は医術と薬学の書物と薬を買付け、土木技術やその他の学問の書物や道具も買い付けました。もちろん密教の大日経や金剛頂経等二百余巻の経、曼荼羅、加持祈祷する密教法具など財力をふんだんに使って買い漁りました。そのため20年で使う蓄財をたった2年で使い果たし、それらを持って2年で日本に帰ってきました。

 最澄と空海は平安時代最初の遣唐使として一緒でしたが、最澄はエリート僧で空海はその他大勢の中の一介の僧であり船も違っていましたので二人が出会うことはありませんでした。

 日本に帰ってきた空海は20年の滞在義務をたった2年で帰って来たため太宰府に留め置かれました。その後、入京が許され、京都に赴き長安から持ち帰った経文や経典を朝廷に献上したりして深く朝廷に取り入りました。それにより空海は朝廷から東大寺別当に任じられ、さらに9年後、高野山に金堂、大宝塔を建て金剛峯寺を開きました。(続く)

小説「仏教のながれ2」その6

 空海の乗った船は明州よりずっと南の赤岸鎮というところにたどり着きました。空海はここから唐の都(みやこ)の長安へ行きました。空海は長安で当時流行っていた新しい仏教である密教を学ぶことにしました。空海が密教のことを事前に調べると梵語(サンスクリット語)がかなり使われているのが分かりました。そこで空海は豊富な財力を使い多額の布施をしてまずインド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)に師事をしました。空海は非凡な才能でもって梵語と漢語を短期間で自在に読み書きできるようになりました。

 そうした後、真言密教の最高峰と呼ばれた青龍寺の恵果和尚に学びました。空海はここでも豊富な財力を使い恵果和尚に多額の布施をし、先輩にも後輩にも気を配りました。もちろん、空海は気配りだけの僧ではなく、恵果和尚も先輩も後輩も空海の才能の凄さに驚きました。ものすごい勢いで密教の教義を修得してゆくのです。空海はさらに財力をふんだんに使って医術、薬学、土木など他の学問も精力的に学びました。まるでやり手の多角経営のビジネストップのように貪欲に吸収してゆきました。(続く)