小説「仏教のながれ2」その5

 最澄は天台宗を学ぶため遣唐使の還学僧(げんがくそう)として唐を目指しました。ここで還学僧とは国家のエリート僧のことで、国費で通訳を連れ1年で還ってこられます。最澄の乗った船は大陸の明州というところにたどり着きました。最澄はここから真っ直ぐ天台山に赴き天台教学の修得に励みました。そうして最澄は天台の法門をすべて会得して帰国し、直ちに日本天台宗を開宗しました。翌年、日本天台宗は朝廷に公認され、最澄は日本天台宗の座主として弟子の育成と法華経の教えである一切衆生を救うことに心血を注ぎました。 

 一方、空海も遣唐使の留学僧(私度僧)として四隻の船の一つに乗って唐を目指しました。留学僧とは私費で仏教を究めようとする学問僧のことで20年の滞在期間が義務づけられています。なお、空海はおよそ7年を費やして留学費用を調達しています。7年かかったとはいえ半端な留学費用ではありません。空海はすでに蓄財の非凡な才能を発揮していました。なお、空海はひたいが異様に突き出ており、その頭の中に納められた大きな脳はのちに多彩な才能を花開かせる天才脳でありました。(続く)

小説「仏教のながれ2」その4

 さて、日本にもこれら漢訳の経典がたくさん持ち込まれ、仏教が盛んとなりました。それぞれの経文によりそれぞれの宗派やお寺などが建立されましたことは隋の国と同じでございます。

  平安時代の始め(8世紀)、天皇はさらに仏教を深く学ばせるため遣唐使を四隻の船に便乗させて唐へ派遣しました。四隻のうち二隻が沈没するという文字通り命がけの航海でございました。無事、大陸に着岸した二隻の船の中に最澄(さいちょう)と空海(くうかい)という僧が乗っておりました。最澄は死後に朝廷より伝教大師の称号を賜り、空海は死後に朝廷より弘法大師の称号を賜りました。それぞれ大師の称号で有名になっておりますが、称号を賜る前のお話しになりますので以下では最澄と空海として書いてゆきます。(続く)

小説「仏教のながれ2」その3

 なお、五時八教の五時とは、お釈迦様の説かれた時期を五期に分類したもので次の通りでございます。

1.華厳時→成道より21日間、華厳経

2.阿含時→12年間

3.方等時→16年間、大日経、金剛頂経、大集経等

4.般若時→14年間

5.法華涅槃時→8年間、法華経、涅槃経

 参考までに法華経は、無量義経を開経とし、普賢経を結経としています。すなわち、無量義経はお釈迦様が法華経を説かれる直前に説かれ、普賢経は法華経が説かれた直後に説かれたのでございます。

 また、天台大師は法華経の根本義である一心三観、一念三千を開き顕(あらわ)しました。天台大師は当然のことご自身が像法時代に生きていることを承知しておりました。そうでありますので像法時代のあとの末法の始め「後の五百歳」を認識しておられました。それで天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾(うる)おわん」と法華文句巻一の上で釈しております。(続く)