文永8年(1271年)の夏、関東地方は大旱魃(だいかんばつ)になり、鎌倉幕府は放って置けないほどの危機感をいだきました。執権の北条時宗(ほうじょうときむね)は信頼している平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)に相談するともなしにつぶやいた。
「水の涸(か)れた水田はどうしたものかのう」
「これは天の仕業、殿のせいではございませぬ」
「しかし、民が苦しむのはのう…」
「雨乞いの祈祷などしてみてはいかがかと存じますが」
「雨乞いか。祈雨の修法を行わせてみるか」
「それは、まさに殿の政(まつりごと)の一つとして民も喜ぶことと存じます」
「さて、鎌倉に祈雨の修法を任せられる高僧」平左衛門尉は殿の言葉を遮って話しを引きとった。
「おりますとも。生き仏と言われる良観上人がおります。なんでも真言律宗には祈雨の秘法があるそうな」
「ほう、祈雨の秘法とやらか」
「雨が降りますれば、幕府は大いに面目を施すことになります」
「そなたのわしへの忠義かたじけない。明日、評定にはかることにいたそう」
「恐れ入ります」