小説「仏教のながれ5」その2

 一方、日蓮は、自身が覚った南無妙法蓮華経を立てて法華経の弘教を開始したこと、念仏の邪義を痛烈に批判したこと、そのため法華経に説かれた刀杖(とうじょう)の難にあったことに悦びを感じていました。

 その後、日蓮は当時の政治の中心であった鎌倉に赴きます。

 なお、浄土宗(念仏)の法然は捨閉閣抛(しゃへいかくほう)と言って経文の根拠もなく法華経を用いるなとしていました。このことで日蓮は法華経を護法する立場から念仏を激しく批判したものと思います。後年、日蓮は幕府に公(おおやけ)の場での法論対決を望みましたが、諸寺の院主などは対決を逃げまわっています。蓮長(日蓮)は比叡山延暦寺での修行時代すでにその学識をたたえられた秀才であり、法論などしたら負けること必定とわかっていたからと思われます。

 日蓮は鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に草庵を構えて弘教を始めました。日蓮への悪口や罵り(ののしり)などは当たり前のように続いています。

「日蓮という坊主は念仏だと無間地獄(むげんじごく)におちるって言ってたぞ」

「ああ、俺も聞いた。気違い坊主の言うことだ。気にするな」

「日蓮坊なんざ生き仏(いきぼとけ)さまの足元にも及ばねえな」

小説「仏教のながれ5」その1

 西暦1253年、末法に入って201年目、日本での鎌倉時代のことになります。

 建長5年4月28日の正午ごろ、安房国(千葉)の清澄寺にある持仏堂の南面で日蓮は「南無妙法蓮華経」と題目を声高らかに三回唱えて立宗宣てらいたしました。同時に当時流行っていた念仏宗の教義を厳しく批判したのです。そこにいた人々は「南無妙法蓮華経」の題目は聞いたことがなく、信じている念仏を批判されたので驚くと共に反発心を起こしました。このことはすぐに鎌倉幕府の地頭(警察権を行使する役人)に通報されます。

 この地の地頭は東条景信で、彼は念仏の強信者でもありました。「なにぃ、日蓮という坊主が念仏を激しく批判しただと。生意気な坊主め。すぐに引っ捕えよ。殺してもかまわぬ」豪胆な鎌倉武士です。そうして日蓮に危害を加えようとする追手が差し向けられました。

 このとき清澄寺の住僧である道善房は、弟子の蓮長(修行時代の日蓮)を逃れさせました。道善房には16歳のときに弟子となり蓮長と名乗ったのがきのうのことのように思い出されます。道善房は、蓮長(日蓮)が激しく念仏宗を批判したことで弟子のこの先のことを憂えました。

小説「仏教のながれ4」その7

 さて、お釈迦様は、法華経の中で、ご自身の入滅が近いことから末法の弘教を四菩薩を上首(中心者)とする地涌の菩薩たちに託しました。また、法華経の中で、末法において弘教するのは法華経であるとも説かれました。さらに、法華経の中で、お釈迦様が教えを説いている時も邪魔する者が現れたが、悪世末法で法華経を弘教する時は様々に大変な難があると説かれています。

 末法で弘教される法華経とはどんなものでしょうか。次から末法の出来事を見てみましょう。(仏教のながれ5に続く)