小説「仏教のながれ4」その6

 法華経にはすべての人が成仏できるということが説かれています。それは人間としての自分の生命の中にもともと仏界が具わっているということが明かされたからです。ここでつながってきました。第九識の阿摩羅識(あまらしき)こそ第八識の奥底に究極的実在として根本浄識(こんぽんじょうしき)を立てており、さらに仏識(ぶっしき)ともいわれています。そうであるならば、自分自身の究極的実在としての仏識から情報を取り出すことで仏界の生命状態を引き出せるのではないかと思われます。

 お釈迦様は当然仏界の生命のご境涯でおられ、簡単に第八識から情報を取り出されました。我々は、第八識から情報を取り出すのも難しいのに第九識など到底考え及びません。

 ここで、「運気を磨く」田坂広志著を参照したいと思います。田坂氏はゼロ・ポイント・フィールド仮説のあともさらに体験と深い思索により「全託の祈り」ということに到達されました。「全託の祈りとは、全てを大いなる何かに委ね、託している祈り」と定義され、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている。大いなる何かは、自分の人生を、必ず、良き方向に導こうとしている」とされました。そして「その大いなる何かとは、我々の心の奥深くに存在する真我と呼ぶべき、我々自身だからである」と結論づけておられます。

 田坂氏が結論づけられた「我々の心の奥深くに存在する真我」と、第九識の阿摩羅識とが似通っていることに驚きを感じます。

小説「仏教のながれ4」その5

 法華経では、十界のうち仏界を除く九界の衆生に仏界がそなわり、成仏した仏にも九界の境涯がそなわることが説かれています。

 例えば、お釈迦様は常に仏界の生命の境涯(図では10階)におられ、その上で、地獄界の生命状態であったり、人界の生命状態であったりします。

 例えばあなたは、子供と楽しく遊んでいるとします。この場合、あなたは穏やかな人界の生命の境涯(図では5階)で、楽しいのですから天界の生命状態でしょう。子供がイタズラをします。あなたは怒ります。その場合、人界の生命の境涯(図では5階)で、怒っているのですから修羅界の生命状態になります。あるいは、子供のイタズラに命の危険がある場合、あなたは子供を守ろうとして菩薩界の生命の境涯(図では9階)になり、怒っているのですから修羅界の生命状態でしょう。

 これは縁によって他の生命の境涯、状態が現れることを意味します。すなわち、法華経には、自身の生命の状態は絶えず変化し、生命の境涯、状態をダイナミックに変革することができると説かれています。

 さて、一瞬の心、すなわち一念に三千の世間が具わるというところまできました。かなりややこしくなってきましたが、もう少しお付き合いください。

小説「仏教のながれ4」その4

 これをふまえて百の法界は、10階建てのビルに模して以下に図示します。読まれなくても眺めるだけで結構です。

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10階は仏界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界のいずれかの生命状態があります。

9階は菩薩界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

8階は縁覚界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

7階は声聞界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

6階は天界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

5階は人界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

4階は修羅界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

3階は畜生界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

2階は餓鬼界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

1階は地獄界の生命の境涯×このフロアに、地獄界、餓鬼界、…仏界のいずれかの生命状態

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