小説「仏教のながれ2」その17

 それでは、なぜ唐の長安で密教が新興宗教として民衆に熱狂的に歓迎されたのでありましょうか。このころの仏教は難しい経文を読誦(どくじゅ)して修行をしなければならないものでした。一般の民衆が簡単にできるものではありません。真言密教は難しい経文を読まなくても修行をしなくても、修行を積んだ偉いお坊さまが加持祈祷をすれば病気が治り、災難に遭わず、どんな願いも叶うとしておりました。

 一般の民衆は飛び付きました。何しろ難しい経文を読むこともなく修行することもなく、偉いお坊さまに加持祈祷をしてもらえば無病息災が得られるのです。それはまた逆に偉いお坊さまになって加持祈祷をすればお布施が入るのですからやめられません。一言で言えばお坊さまは儲かるのです。

 加持祈祷ができる偉いお坊さまになるには「阿闍梨(あじゃり)」という最高の地位にならなければなりません。空海の師である青龍寺の恵果和尚はもちろん「阿闍梨」であり、空海は財力とずば抜けた頭脳をもって短期間で恵果和尚から「阿闍梨」の称号を得ています。密教、すなわち秘密の教えですから師から弟子への直接の伝授であり、他人はこの秘密の教えを知ることができません。(続く)

小説「仏教のながれ2」その16

 また、密教が成立したのは7世紀ですからこれをお釈迦様のお説きなされた仏教と言われたならば、お釈迦様もさぞかし驚かれることでありましょう。密教の宗教儀式はもともとバラモン教やヒンズー教のものですからお釈迦様の仏教とは関係がありません。

 さらに、空海の持ち帰った大日経、金剛頂経は、お釈迦様が「四十余年。未顕真実」と説かれ、お釈迦様が42年の間、真実をあらわさずに説いた教えであり方便の教えであります。方便とは「ウソも方便」という言葉がありますように、お釈迦様が人々を仏教に導くためについたウソあるいは仮の教えということであります。

 そういうことでありますから真言密教の本尊である大日如来は方便の仏、仮に説かれた架空の仏ということになります。(続く)

小説「仏教のながれ2」その15

 ここで、空海の学んだ密教の成立についてもう一度考えてみたいと思います。密教はインドで7世紀の中ごろバラモン教やヒンズー教の宗教儀式を取り入れて発展したもので大乘教の傍系の一宗派という位置づけでございました。このように密教の成立は7世紀であり、天台大師は6世紀に現れましたので一念三千の法門は盗みようがありません。

 8世紀に入ってチベットに伝えられた密教はラマ教となり流布されました。また、同時期に密教は唐にも伝えられ、当時の新興宗教として民衆に歓迎され支持されました。まさに空海が長安で見た仏教とはこれでありました。

  お釈迦様が密教について問われたならば「密教を説いた覚えはありません」とおっしゃられるのではないでしょうか。なぜなら、お釈迦様は民衆の中へ入って人々に寄り添い仏教を説かれました。だからこそ成道してから42年間も真実の教えを説かず人々を仏教に導くための方便の教えを説いたのでございます。お釈迦様は人々に寄り添い教えを説いていらしたのですから、密教、すなわち秘密の教えなどを説くひまはなく、その必要もございません。(続く)