小説「仏教のながれ6」その4

 弘安2年(1279年)10月1日、日蓮大聖人が著(あらわ)された聖人御難事で立宗以来、二十七年目にして大聖人自身の「出世の本懐(ほんかい)」をとげられことが示されています。「出世の本懐」とは、この世に出現した目的という意味です。

 熱原の法難は民衆が受けた難であり、大聖人の仏法が民衆に受け継がれたことにより、日蓮大聖人の生涯をかけた根本目的「出世の本懐」を達成されたのです。

 日蓮大聖人は、民衆が大難に耐える信心を確立したことを感じられ、御本仏として御自身の仏界の生命を一幅(いっぷく)の曼荼羅(まんだら)にあらわされました。

 経王殿へのお手紙には「日蓮がたましいをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給え」と日蓮大聖人が墨で書かれた曼荼羅について触れておられます。

 この曼荼羅は、凡夫の我々が日蓮大聖人と同じく、南無妙法蓮華経と唱えて我が身に仏界の生命を体現させることのできる本尊ということです。御本尊とも呼ばれます。

小説「仏教のながれ6」その3

 こまったのは滝泉寺の院主代の行智(ぎょうち)です。宗教ならば法論で対決すべきですが、行智が日興上人に勝てる見込みはありません。そこで行智は、これらの人々を脅迫したり、迫害をして自宗の信徒が減るのを阻止しようとしました。いつの時代も同じ構図です。

 弘安2年(1279年)9月21日、滝泉寺の行智らの策謀により、大聖人門下となっていた熱原の農民信徒20人が無実の罪で逮捕され、鎌倉へ連行されました。そしてここに登場するのが、またまた平左衛門尉です。平左衛門尉は、私邸で拷問に近い取り調べをして法華経の信心を捨てるよう迫ったが、全員が信仰を貫き通しました。激怒した平左衛門尉は、3人を処刑し、17人を追放にしました。この法難を熱原の法難といいます。

 権力に溺れた物狂いに付ける薬はないようです。その後、平左衛門尉は、北条時宗の子の貞時(さだとき:14歳)が第9代執権になってから専制と恐怖による支配を強め絶大な権力を握りました。正応6年(1293年)4月、鎌倉大地震の混乱に乗じ、なんと貞時の軍勢に自邸を襲われ、平左衛門尉は自害して一族は滅亡しました。

 また、熱原(静岡県富士市)にあった滝泉寺は、活断層の上に建っていたため地震による活断層のずれで倒壊し、現在は「昔ここに滝泉寺というお寺がありました」という碑文の石碑があるだけです。

小説「仏教のながれ6」その2

 文永11年(1274年)2月、大聖人は佐渡流罪を赦免され、3月に佐渡から鎌倉へ帰られました。

 同年4月、日蓮大聖人は平左衛門尉と再度対面して諫(いさ)めましたが用いられず、結局、三度諫めても用いられなかったので、大聖人は鎌倉を離れ甲斐国の身延山(みのぶさん)に入られました。ここで、日蓮大聖人は、多くの執筆や仏法の重要な法門を説かれました。さらに法華経の講義などを通して弟子の育成が行われました。

 こうした中、弟子の日興上人は駿河国の富士方面で弘教に励んでいます。ここには天台宗の滝泉寺(りゅうせんじ)がありました。この寺の僧や信徒が続々と日蓮大聖人の仏法を信仰するようになっています。

 この時代、信仰の自由がありました。後世の徳川時代に寺院の檀家制度を設け、人々を監視するため寺院に登録させてしばりつけたのです。先祖代々の宗教というのは、たまたま住んでいた地域にあった寺院に登録し「この寺院に属する者でよそから来た怪(あや)しい者ではありません」というだけのことです。