小説「仏教のながれ6」その1

 南無妙法蓮華経は羅什三蔵(らじゅうさんぞう)が漢訳した「妙法蓮華経」に単に「南無」をつけたというわけではありません。日蓮大聖人が弟子にされた法華経の講義を日興上人が筆録された「御義口伝(おんぎくでん)」が残されています。そちらの最初のほうに南無妙法蓮華経について詳しいので必要であればご参照ください。

 さて、日蓮大聖人は佐渡へ流罪されても、念仏者らが大聖人を亡き者にしようと佐渡へ渡ってきます。佐渡国の守護である本間重連(ほんましげつら)に制止され、法論対決をしました。もちろん、大聖人はことごとく論破されました(塚原問答)。

 竜の口の法難から150日後の2月、北条一門の内乱が起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(二月騒動)。大聖人が予言された自界叛逆難(内乱)が発生したのです。

小説「仏教のながれ5」その19

 仏法には凡夫(ぼんぷ)という表現があります。凡夫とは普通の人のことです。一念三千の法門で学んだとおり、凡夫(普通の人)には本来もともと仏界の生命がそなわっているということです。

 数々の法難と竜の口の法難により、日蓮は宿業や苦悩をかかえた凡夫という仮の姿(迹)をひらいて、凡夫の身のまま、生命にそなわる本源的な慈悲にあふれる仏という本来の境地(本地)を顕(あらわ)されたのです(発迹顕本)。

 末法に入って219年、日蓮は法華経を身(み)で読んで凡夫(普通の人)の姿のまま末法の御本仏であることを示されました。南無妙法蓮華経は、凡夫にもそなわる普遍の法であり、過去世・現在世・未来世という三世をつらぬく永遠の法だったのです。

 これから先、末法の御本仏として「日蓮大聖人」と書かせていただきます。(「仏教のながれ6」に続く)

小説「仏教のながれ5」その18

 話しが脇道にそれました。

 法華経には、お釈迦様が五百塵点劫(考えられない程)の昔に菩薩道を修行して仏になられたと説かれていますが、重大なことが説かれていません。それは菩薩道を修行して仏になったという結果だけが説かれていて、その仏になった根本の原因が説かれていないのです。

 お釈迦様は常に仏界の生命のご境涯でおられますが、その上で地獄界や餓鬼界や人界の生命状態でおられ、仏界の生命状態になられたときゼロ・ポイント・フィールドに働きかけ、ホログラムとして立体画像を現出させたものと思われます。

 竜の口の刑場における「光たる物」とは何だったのでしょう。仏法に奇跡などありません。仏法には原因があって結果があるのみです。

 日蓮が鶴岡八幡宮で叱責(しっせき)したのは日蓮自身のゼロ・ポイント・フィールドに働きかけたものと思われます。そうして日蓮が仏界の生命の境涯になり、その上で南無妙法蓮華経と唱えて仏界の生命状態になったときゼロ・ポイント・フィールドに働きかけ、ホログラムとして「光たる物」を現出させたものと思われます。

 日蓮が南無妙法蓮華経と唱えて仏界の生命状態になった根本の原因こそ、日蓮の覚知した南無妙法蓮華経だったのです。日蓮が南無妙法蓮華経と唱えるのは、日蓮自身の中にある南無妙法蓮華経に働きかけることだったのです。だとすると、天台大師が釈した第九識、阿摩羅識、根本浄識、仏識とは、南無妙法蓮華経のことだったのです。