小説「仏教のながれ4」その6

 法華経にはすべての人が成仏できるということが説かれています。それは人間としての自分の生命の中にもともと仏界が具わっているということが明かされたからです。ここでつながってきました。第九識の阿摩羅識(あまらしき)こそ第八識の奥底に究極的実在として根本浄識(こんぽんじょうしき)を立てており、さらに仏識(ぶっしき)ともいわれています。そうであるならば、自分自身の究極的実在としての仏識から情報を取り出すことで仏界の生命状態を引き出せるのではないかと思われます。

 お釈迦様は当然仏界の生命のご境涯でおられ、簡単に第八識から情報を取り出されました。我々は、第八識から情報を取り出すのも難しいのに第九識など到底考え及びません。

 ここで、「運気を磨く」田坂広志著を参照したいと思います。田坂氏はゼロ・ポイント・フィールド仮説のあともさらに体験と深い思索により「全託の祈り」ということに到達されました。「全託の祈りとは、全てを大いなる何かに委ね、託している祈り」と定義され、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている。大いなる何かは、自分の人生を、必ず、良き方向に導こうとしている」とされました。そして「その大いなる何かとは、我々の心の奥深くに存在する真我と呼ぶべき、我々自身だからである」と結論づけておられます。

 田坂氏が結論づけられた「我々の心の奥深くに存在する真我」と、第九識の阿摩羅識とが似通っていることに驚きを感じます。

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