小説「仏教のながれ5」その2

 一方、日蓮は、自身が覚った南無妙法蓮華経を立てて法華経の弘教を開始したこと、念仏の邪義を痛烈に批判したこと、そのため法華経に説かれた刀杖(とうじょう)の難にあったことに悦びを感じていました。

 その後、日蓮は当時の政治の中心であった鎌倉に赴きます。

 なお、浄土宗(念仏)の法然は捨閉閣抛(しゃへいかくほう)と言って経文の根拠もなく法華経を用いるなとしていました。このことで日蓮は法華経を護法する立場から念仏を激しく批判したものと思います。後年、日蓮は幕府に公(おおやけ)の場での法論対決を望みましたが、諸寺の院主などは対決を逃げまわっています。蓮長(日蓮)は比叡山延暦寺での修行時代すでにその学識をたたえられた秀才であり、法論などしたら負けること必定とわかっていたからと思われます。

 日蓮は鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に草庵を構えて弘教を始めました。日蓮への悪口や罵り(ののしり)などは当たり前のように続いています。

「日蓮という坊主は念仏だと無間地獄(むげんじごく)におちるって言ってたぞ」

「ああ、俺も聞いた。気違い坊主の言うことだ。気にするな」

「日蓮坊なんざ生き仏(いきぼとけ)さまの足元にも及ばねえな」

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